NewJeansおじさん問題について

 「メタ」から「ベタ」への転向表明として、noteからはてブに転校して1件目の記事。

「NewJeansおじさん問題」について語ろうと思う。卒論提出期限まであと2週間だけど。

NewJeansおじさん問題

 某広告代理店マンや某音楽評論家が、NewJeansについて触れると、ついつい上から目線の発言に聞こえてしまう。これが当該のツイートだ。

某代理店マンのツイート。

マンスプレイニング、評論家気取り、、、、、色んな言葉が頭の中をよぎるが、別に頼んでもいないのに、なんか教えてくる(それも雑な方法で)。世の中をパターンに当てはめて消費社会を自分が動かしてる気になっている、よくある広告マンの仕草と言えるだろう(これも、「メタ」な視点だと言える)。

 だけど、Kpopのファンダムを形成する若者たちは集団意識が強すぎて、普段Kpopなんて聴いてない人が、NewJeansを聴いて絶賛してることに強い嫌悪感を示している。普段からKpopを聴いて、ナワバリ意識が強い「若者」と評論家気取りでNewJeansだけを絶賛する「おじさん」の世代間ギャップが生じた結果、「NewJeansおじさん」という蔑称が誕生した。

自分はどうなのか

まずは認めるところから始めたい。正直に言えば、自分はNewJeansおじさんに該当すると思う。だって普段はKpopを聴かないのに、なぜかNewJeansに強く魅力を感じているからだ。そして、NewJeansにハマった理由を言語で説明することができない。この記事で登場した友人にNewJeansが好きだといって、以前バカにされたことがあり、その友人の発言を内面化させた私は、人前でNewJeansが好きだと言うことを躊躇うようになってしまった。その点において、内面化された「メタ」な友人によって「NewJeansを好き」という「ベタ」な感想が殺されてしまっているのだ。

 話が脱線してしまったが、もう一度言えば自分はNewJeansおじさんに該当する。

そして、それを知っている他の一部の友人に「NewJeansおじさん」と言われることでさらに自分が「NewJeansおじさん」なんだと強く自覚させられている。何も考えずに「ベタ」に「NewJeansを好き」って言いたい。ホントに。

宇野維正氏とNewJeans

 映画・音楽ライターの宇野維正氏が、NewJeansおじさんの代表であるという共通見解がネットには存在している。音楽ナタリーに特集まで組まれる次第だ。

natalie.mu

宇野氏はツイッター上にNewJeansの写真とともに「写真良すぎる。マジで初期のビートルズみたい」とコメントをつけツイートし、Kpopファンダムから怒りを買って炎上した。「よくわからん人がいきなりKpopに首を突っ込んできて、むかーーしのバンドと比較して、我が物顔をしている」のが許せなかったのだろうか。

そもそも批評の何がまずいのか

ある作品に対して新たな視点を導入することで、これまでになかった作品受容を可能とするのが批評、あるいは文化研究の優れた点であることは間違い無いだろう。しかし、批評の持つ問題点が、今回の「NewJeansおじさん問題」を生み出しているのではないかと私は推測している。

 その問題とは、批評が本質的に「メタ」である点にある。高く評価されている「初期のビートルズ」とNewJeansの類似性を指摘することを、宇野氏はNewJeansを高く評価する際の根拠としている。すなわちNewJeansの良さを抽象化し、過去のデータベースに照らし合わせて、評価を下している。具体的な作品を抽象的な要素に分解する過程で、「生の感情」が失われてしまうから、どうしても一番初めの代理店マンのツイートみたいな冷たくて、雑な消費に見えてしまう。これが、ファンダムの怒りを買っている。

 私個人としては、この「批評の持つ問題」と「NewJeansのファンダム」の相性の悪さを考えたときに、NewJeansの良さについて思考を停止させるというのが最適解に思えて仕方がない。前進してもNewJeansおじさんだし、後ろに進んでもNewJeansおじさんで、項羽もびっくりの”四面NewJeans”なのである。だから最初からNewJeansおじさんであることを認め、敗北宣言をしてファンダムの軍門に降るのがベターなのではないかと。だからこそ、何も考えずに「ベタ」に「NewJeansを好き」って言いたい。心の底から。

渋谷系エリート主義とNewJeans

突然だが、「渋谷系」という音楽ジャンルがある。簡単に説明すると、1990年代に渋谷を中心に流行ったオザケンとか小山田圭吾のおしゃれな音楽、という感じである。この渋谷系」が流行したとされる事実がしばしば疑問視されることがある。当時の渋谷で、音楽オタクの一部の人しかハマってなかったのに、あたかもそれが90年代を代表する音楽ジャンルとして扱われるのがオカシイ、90年代といえば、ミスチルとか小室哲哉とかそっちが主流だろ、という主張だ。

そうした主張の代表者として、先ほどから名前を挙げている宇野氏は以下のようなことを主著『1998年の宇多田ヒカル』で書いている。

渋谷系という言葉がメディアで使われるようになる前からその界隈にいたミュージシャン/リスナーとは、ある種のエリート主義に基づいたいびつな音楽好きの集まりだった。(宇野 2016:65)

勝者が歴史を後世に伝えるように、文化人を味方につけた渋谷系は、それがさも1990年代の若者文化の代表かのように語られる(実際、東京オリンピック開会式の音楽担当は小山田氏であった。あの事件さえなければだが)。すなわち、渋谷系とは、極めて批評的で、渋谷という情報密集地帯でしか成立し得ない「情報強者」のデータベース的・サンプリング的な音楽だったのである。

 だからこそ、渋谷系的な音楽の受容とNewJeansおじさんには密接につながりがあるように思えてならない。宇野氏が指摘するような渋谷系のエリート主義と、NewJeansおじさんの持つ批評性というめんどくささが、付合して見えるのだ。しかも、1990年代から渋谷系をフォローしていた人たちは、今現在、おじさんと呼ばれる歳だろう。

 渋谷系のエリート主義を批判していたはずの宇野氏が、渋谷系のエリート主義と全く同じことをしているようにしか見えない。

 また、宇野氏は、Kpopではなくグローバルミュージックと呼称するように、というメディアの中の意識についてこの動画の中で述べている。

www.youtube.com

 

かつて渋谷系の代表といわれた「オリジナル・ラブ」の田島貴男は、「俺は渋谷系じゃねぇ!」と言ったといわれているが、「Kpop・グローバルミュージック論争」というブランディングと「渋谷系」にはかなり近しい現象が起きているように思えた。

あとがき

「NewJeansおじさん問題」についてここまで語ってきたが、この問題は、

・ファンダムとおじさんの世代間格差

・Kpopのブランディングの類似性

という2点において、「渋谷系」音楽と近い現象が起きていると考えられるので、とても興味深い。

 卒業論文では「渋谷系」についてウンザリするくらい書いているので、気になったら私の卒論を読んでほしい(完成するかはわからないが)。そろそろこの辺で卒論の息抜きを終えたいと思う。